EXHIBITIONS
木村萌「汽水域をなぞる」
- Information
- Works
- DATE
- 2024-08-23 [Fri] - 2024-09-21 [Sat]
- OPEN TIME
- 11:00-18:00[Tue-Sat]
- CLOSE DAY
- Sun, Mon, National holidays
2021年の木村萌個展「生地の庭」に引き続き「汽水域をなぞる」を開催いたします。
ベトナムで習得したシルクペインティングの技法を応用し、薄い布に、水彩やアクリル絵の具を使って描く制作を継続しています。
「生地の庭」では木片や針金などを用いて、見立てることによって名もなき不確かなものたちを描き、透ける布にその像は溶けてしまうかのようですが、視覚はむしろ確かな存在を捉えています。
今回の「汽水域をなぞる」ではモチーフに風景が加わります。それは水辺の風景でしょうか。
透ける布の奥行きの中に染み込むように現れる水辺の風景をぜひご覧いただければと思います。
“ 左手になだらかな山、右手には美しい海が見える。その道をしばらく行くと、大きな橋に差し掛かる。山を下ってきた川が、ちょうど海に流れ込むところ、汽水域に私は到着する。
川の両脇には、沿うようにマングローブが生えていて、うねりのある形が泥の中で低く腕を組み連なっている。マングローブ林のさらに外側に視線を向けると、ある所を境に背の高い木が並びはじめる。塩分を含んだ土壌で生えるマングローブと、海水の届かない地点に生える樹木の棲み分けが、川の両脇に線を引いていた。
私は想像する。泥から少しずつ水分を減らし、乾いた土へと変化する大地。潮の満ち引きに合わせて川幅が変化する様子。海水が川を逆流し、淡水と混ざり合って、絶えず塩分濃度を変える。
そのようにして視線は大きな境界の中を辿ってゆく。常に微細に変化し、滲んだような境界線だ。
木村萌 ”
裏と表の鳴る音
千里鶯啼緑映紅 千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中 多少の楼台煙雨の中
酒場のある位置を示す酒旗は、いま引いた杜牧の「江南春」をはじめとする多くの漢詩に詠まれ、山水図の点景としても登場する。細くしなる棒の端で風に吹かれる酒旗が、什器に吊るした木村萌の絵画と似ているのは偶然だろうか。絵のひらめくさまはいっけん幻想的だが、酒旗の記憶が印象をやわらげ、かつて中国の文人たちが愛したであろう雨にけぶる村の風景を思わせる。木枠に縫いとめた絵画のほうを見やっても、遠くに見える山並のあわあわしさに、画中に引き込まれそうな心地さえする。
木村はガーゼほどに薄い綿布の上に、白とその他の色の絵具を交互に重ねるグレーズで描く。そうすることで色彩のなかから白いモチーフがぼんやりと浮かび上がってくる。デューラーなど16世紀以降の画家は顔料粉を混ぜた有色紙に白チョークで描いた素描を多く残しており、彼女の白い描画はそれらを想起させる。しかし支持体の綿布に地塗りも裏打もしない木村の絵は、向こう側が透けて見えている。このように繊細な描法だとモチーフの濃淡が出しにくく、奥行や立体感を強調した表現には適さない。それゆえ彼女の描くモチーフはかぎりなく影に近い。吊り下げられてゆらめくことで白色が光を反射し、鑑賞者はそのときはじめて布の上に白い影のあることに気がつく。
いくつかの作品には石垣島のマングローブの植生が描かれている。マングローブは汽水域の水底から生え、潮が引くと檻のように林立する重厚な根が姿をあらわす。この堅牢な密林は、小魚が天敵から身を守るための棲家となっている。淡水と海水の境界は線ではなく、ひとつの生態系をなす面である。汽水域に育つマングローブの根は、独自の生態系を形成している。
デュシャンがメモに書きつけたinframinceという言葉はもはや手垢にまみれてしまったが、彼は一例としてビロードのパンタロンが擦れ合う音を挙げている。あえて訳すなら、物体の薄さを表す「極薄」よりも、物と物、知覚と知覚のあわいを表す「識閾」が妥当だろう。それは両手の鳴る音のように、あらわれるが早いか刹那のうちに消え去る。木村の半透明の絵画は、布の裏と表がふれあう境界である。彼岸と此岸が接する皮膜に、白いイメージがたちあらわれては消えていく。
安井海洋
書物史研究・美術批評
愛知医科大学・常葉大学非常勤講師
ARTIST PROFILE: 木村萌