安部悠介
決定的に自由であるために

2018年12月7日(金)‒ 2019年1月26日(土)

*12月29日(土)- 1月10日(木)は休廊

 

[オープニングレセプション]
12月7日(金)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月・祝] 休廊

画家・安部悠介による個展「決定的に自由であるために」を開催いたします。今年3月に美術大学院を修了したばかりの若手ペインターである安部ですが、そのストイックな制作力から生み出されるパワフルな作品群を武器に国内外で活動を重ね、少しずつ注目を集めています。本展覧会は、大学院修了後の彼の初個展となります。

今にも具現化しそうな躍動感に満ちたポップなキャラクターたち。あるいは絵画上にトレーディングカードやプラスティック製品を貼り付ける、キャンバスの上に別のキャンバスを重ねる、といった大胆な構成から生まれる異様な画面。安部の絵の前に立った時、まず目を引くのはこれらのキャッチーな要素です。そこには彼が少年時代から今に至るまで親しんできたゲーム文化や自然にまつわる記憶、そして絵画や美術史を地道に研究してきた彼独自の、批評的な視線や新しい絵画形式・様式の提示を読み取ることができます。

これらの諸要素を楽しむだけでも安部の作品は十分に魅力的です。しかしそれ以上に彼を絵画へと突き動かしているものは、もっと別の、名状しがたい何かです。

たとえば安部は、自身の画中でモティーフとして扱ってきた昆虫や魚、架空のモンスターたちと、絵筆によって引かれた何気ない一本の線とが、“全く同等の存在”であると語ります。昆虫は草むら、魚は水中、モンスターはカードやゲームの世界、それぞれの住処の環境に従って 成立し、生きています。安部は幼い頃から、昆虫採集や魚釣り、あるいはゲームをプレイすることを通してそれら別世界の住人たちと遭遇し、 自分とは別種の生命と環境を持った「彼ら」の存在に驚き、魅かれ続けてきました。そしてそれは、自らもまた彼らと何ら変わらず「人間の世界」という限定的な環境のもとで生きている、という自覚へと敷衍されていきます。

高校時代に初めて油絵具を手にしてキャンバスに何気ない一本の線を引いた時、安部にはその色面が「彼ら」と同様に、それ自身が住む世界の仕組み、すなわち「絵画の世界」という環境に則って成立し、生命を与えられている存在に見えたそうです。視覚芸術に対する彼の鋭敏な感覚の原点を示すエピソードだといえるでしょう。加えて絵画は、そのような自律的な環境を持つとともに、その作家自身の紛れもない痕跡でもあります。安部にとって絵具と筆は、自らの分身のような世界と、全く異なる未知の領域の両方に同時にアクセスするためのツールなのかもしれません。絵画が持つこのような両義性にのめり込み、安部は制作を積み重ねてきました。

本展のタイトルにおける「自由」という言葉が意味するものは何か? もちろん彼にとってそれは、絵画上に好きなものを貼り付けたり、奇抜な構成を施したり、といった表面的要素を示すものではないでしょう。安部にとっての絵画が、自分自身の生きる世界と別の生命が息づく異界の両方を把捉し、探求していくためのものだとするならば、そこにおける「自由」とは、一つには、複数の次元に存在するいくつかの世界に触れ、その環境から逃れられない各々の宿命を感じながらも、自らの持ち場で最大限に生命を燃やしていくことであるといえるのではないでしょうか。

本展は、これまでの安部作品の多彩な技法が網羅的に盛り込まれた最新シリーズと、ここ数年の大量の過去作品群の中から選び抜かれた重要なピースたちで構成される予定です。2018年から2019年へとまたがる会期のどこかでは、作品の入れ替えや追加も予定しております。いま最も誠実かつ切実に、そして真正面から絵画と向き合う期待のペインターのデビューを、1人でも多くの方に目撃していただければ幸いです。

9月 05日[青野セクウォイア]展覧会情報を公開

11月1日(木)から開催する展覧会「青野セクウォイア Vital Beating」の情報を公開いたしました。

青野セクウォイア
Vital Beating

2018年11月1日(木) ‒ 12月1日(土)

[オープニングレセプション]
11月1日(木)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月] 休廊

彫刻家・青野セクウォイアによる個展「Vital Beating」を開催いたします。現在ニューヨークを拠点に活動を展開する青野は、精緻な写実的表現を可能にする高い彫刻技術や、石材・木材・金属など幅広い素材を柔軟に扱った作品群、あるいは燃やす・切断するといった実験的アプローチを加えた木彫作品などによって注目を集めています。欧米を中心に巨大な野外彫刻のコミッションワークも多数手がけるなど高い評価を受け始めている青野ですが、日本での個展は今回が初となります。

本展の軸となる青野の最新作《Sculpture of Liberty》には、彼がおよそ10年間保管してきた黒大理石が使われています。昨年から今年にかけて青野はこの大理石を切り出し、丹念に掘り、磨き上げ、等身大の精巧なセルフポートレイト像を生み出しました。そしてこれから青野は最後の“仕上げ”としてこの立像を倒し、地面と衝突させることによって破壊するという手を加えます。展覧会ではバラバラ になった像そのものと、倒壊の瞬間を収めた映像などが展示される予定です。

破壊という手段によって彫刻を完成させる行為は、一見ネガティヴなもの・破滅的なものに映るかもしれません。しかし常日頃から石 材や木材を掘り続けている青野は、自然の力によって生み出された素材たちに人工的な手を加えていく「彫刻」という行為も “破壊” であることに変わりはないと語ります。むしろ地面と衝突させる=重力を利用する、という工程は、自然の摂理を作品に取り入れることでもあり、青野にとっては彫刻という人為的な “破壊” から遠ざかるための手段でもあります。

このようなプロセスを経て展示される今作は、私たちを様々な新しい視座へ導くでしょう。倒壊によって出現する彫像の割断面は、作 家自身にすら予想不可能な造形を宿し、この立像の鑑賞者に対しても未知の視点をもたらします。今作における破壊は、終焉や完結 を意味するものではなく、彫刻に生命を吹き込み、新たな創造へと向かうためのスタートラインとでもいうべきもの。ひいてはそれらが 彫刻芸術一般の本質や視覚に対する新しい問いかけや照射となることを、青野は目指しています。あるいは彼が今回の制作のきっか けとして挙げるメトロポリタン美術館所蔵の《Fragment of a Queen’s Face》のように、文化財の継承や作品の完全性・歴史性といっ た命題を想起させる側面をも有するかもしれません。そして現在も絶え間ない災害にさらされている日本という国や、日本とアメリカの血を引く自身のアイデンティティといった事柄もまた、今作に至るまでの青野の制作に通底するテーマとして存在しています。

高度な職人的彫刻技術と、そこから果断に両手を離すかのような実験的挑戦によって訪れる創造の瞬間を、ぜひ多くの方に目撃いただければ幸いです。

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10年ほど前になるだろうか。メトロポリタン美術館で《Fragment of a Queen’s Face(女王頭像断片)》という彫刻を観た。

紀元前1352~1336年頃のエジプトで作られたとされるこの女王の頭像は、頭部の大半を失い、現在は口元と顎だけが残っている。ガラスのように シャープに裂かれた大きな断面。魅惑的な黄色い石は、その硬さをも物語っていた。“割れ”た断面は、ある種の生命感や素材の素顔を露わにして いる。その無垢で自然な石の表情と、彫り師によって彫刻された人為的な表層との鬩ぎ合いが、互いを引き立て合っている。そしてその大きな“欠落 ”は見る側の想像をかきたて、論議を呼び、いつの時代にも人々を魅了し続けてきた。この彫像が壊れることなく完全体であったなら、失われた部分に対する片想いのような異常なもどかしさを感じることもなく、私の目にもただただ貴重な文化財の一つとして映っていただろう。

私は大学で彫刻を始めて以来、自然の素材の美しさと、カーヴィングの本質に魅せられ制作活動をしている。しかし同時に、もともと美しい天然素材を相手にカーヴィングという名の“壊す”行為で作品を完成させていく矛盾や難しさとも日々奮闘している。

この《Fragment of a Queen’s Face》との出会いから、人為的な創作には越えられない限界があるのではという想いが次第に強まり、完成される間際に人為の及ばない偶然性を加えられないだろうかと、木彫を焼く・切断するといった研究も多々おこなってきた。身近な参考例でいえば、焼き物の高熱処理によって生まれる予測しきれない色や輝き、陶器の形状を変化させる「焼き締め」、釉薬を定着させるための工程などが挙げられる。

壊れてもなお美しさを残し、謎めいてゆく文化財。歴史や時間、あるいは事故といった要因によって生み出されたものであっても、何らかの力が魅惑的な造形物の最終形態をとどめたのだとすれば、高熱で焼き人智の及ばない工程を経て完成される焼き物とそう変わらない、とも解釈できるのではなかろうか。

私は無からの創造ではなく、時代や文明を超えた魅惑や美しさを形成するいくつもの条件や要素を割り出し、そのいくつかに着眼し、私なりに現代に生み出す新しいアートにとり入れたいと考える。

地震大国であり、また広島・長崎・福島での被曝も含めこ れまでに多くの災害に遭い、様々な試練を強いられてき た日本…“破壊と創造”は特に日本人にとっては実は代々 身近なことなのかもしれない。ここ数年アメリカを拠点に している私だが、この東京での展覧会を機に、彫刻を通し て、“日本人とは”もしくは“私とは”を改めて模索すると同 時に、未知あるいは異種なる世界へと観る人々をいざないたい。

青野セクウォイア

ヴィレ・アンデション
I CAN’T GO ON. I WILL GO ON.

2018年9月28日(金)‒10月27日(土)

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月・祝] 休廊

 

[オープニングレセプション]
9月28日(金)18:00 ‒

[アーティストトーク]
9月28日(金)19:00 ‒

 

“燃えさかる太陽と全てを吹き飛ばす嵐の只中、砂漠にもわずかな植物が存在した。その小さな花々は儚くとも、
純粋で絶対的な生命そのものだった。” -ヴィレ・アンデション

昨年、アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠でアンデションが撮影した一枚の写真がこの展覧会の出発点となりました。“ホワイトサンズ” 砂漠は、地球に近い小惑星を観測する”リンカーン地球近傍小惑星探査(=LINEAR)” の拠点であり、1945年に人類史上初めての核実験が行われた場所でもあります。時間や場所の感覚を失わせる真白な砂の光景は、アンデションにとって、空白がもたらす”不在”そのものについてだけではなく、過去に存在したものや、未来に存在しうるものについての思慮を促すものでした。 そのアイデアは、幾度も日本を訪れた作家が影響を受けたという”細部への意識” や”間” といった概念を取り込み、 そしてニューヨークの The Watermill Center でのレジデンスを経てブラッシュアップされ、本展の東京での開催に至ります。

展覧会を構成するモノクロームの風景イメージは、まるで記憶の中から再現され、作家の手にかかることで消失を免れているかのようです。もう一方の構成要素である人体と顔は、アンデションが「デジタルスカルプチャー」と呼ぶ手法、つまり平面に出力された 3Dモデリングソフトによる仮想空間での彫刻、そしてインクと鉛筆によるドローイングによって描き出されます。性別のない、しなやかな身体は激しく動いているようで、同時に静止しているようにも見えます。アンデションの作品は動と静、具象と抽象、有機と無機のあいだを行き来します。 そして繊細なニュアンスや抑えた色彩、存在の儚さ、 疎外感など、様々な要素を組み合わせ、相互にリンクさせます。

展覧会タイトルはノーベル賞作家サミュエル・ベケットの小説 “Unnamable” (邦訳:名づけえぬもの) の最後の 一節 “you must go on, I can’t go on, I’ll go on.” (つづけなくちゃいけない、つづけることはできない、つづけよう) から採られました。アンディションによれば、このマントラのような句は悲劇的であると同時に喜劇的な状況をあらわしています。ベケットの作品では主体と客体の境界線が消失し、存在の同一性が否定されますが、その引用は、かつてなく流動的で多元的な現代社会を生きる人間の姿を暗示しているかのようです。

 

ヴィレ・アンデション
1986 年 フィンランド ロヴィサ生まれ。ヘルシンキ在住。2012 年フィンランド芸術アカデミー修了。2015 年、フィンラ ンドの若手芸術家に贈られる最高賞 Young Artist of the Year を受賞した。アンデションの作品は、多様なメディアと方 法論により制作され、美術史と現代社会の問題の双方に接続する。EMMA-Espoo Museum of Modern Art( フィンランド , エスポー ) や国立新美術館 ( 東京 ), Vitraria Glass + A Museum(ヴェネチア )、Museum Weserburg( ドイツ , ブレーメ ン )、The Centre for Photography( スウェーデン , ストックホルム )、FOMU-Foto Museum( ベルギー , アントワープ ) 等で展示。2018 年には The Watermill Center( アメリカ , ニューヨーク ) のレジデンスアーティストに選ばれた。近年の プロジェクトにはフィンランド郵便公社の切手、テーブルウエアのデザイン、舞台美術や公共施設のアートディレクションな ど も 含 ま れ る。ア ン デ シ ョ ン の 作 品 は、Kiasma Museum of Contemporary Art、Saastamoinen Foundation Art Collection、Amos Anderson Art Museum など、いくつかのパブリックコレクションに収蔵されている。

Triadic Surfaces
安部悠介・影山萌子・渡辺佑基

2018年8月3日(金) ‒ 8月25日(土)

[オープニングレセプション]
8月3日(金)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月] 休廊

安部悠介・影山萌子・渡辺佑基によるグループ展「Triadic Surfaces」を開催いたします。20~30代の若手ペインターである三者ですが、作品にはそれぞれの目指す世界と独自の造形の萌芽が既にはっきりと現れています。

安部悠介の絵画に頻繁に登場するのは、架空のモンスターや巨大な迷路、幼少期に親しんだ昆虫や魚釣りといった一見チャイルディッシュなモティーフたちです。彼が好むテレビゲームやカードゲーム、自然豊かな山形で過ごした少年時代の記憶、あるいはサブカルチャー的な領域への視線、といった具体的要素もそこには少なからず含まれているでしょう。しかしそれらの融合によって安部が真に追求しているのは、絵画の中にのみ根付きうる、名状しがたい未知の世界とでもいうべきものです。近年の作品では描かれる像の抽象性が高まり、通常の絵画制作では扱われないような素材を含めた多彩なマテリアルが掛け合わせられることで、複数の異次元世界の断面が積層したかのような異様な画面が形成されています。ストイックかつ実験的な制作によって生み出される強力な作品群からは、既存の絵画やアートに対する問題提起も窺えるでしょう。

影山萌子の作品にみられる正統的な油彩技法や、一見してそれとわかるイマジネイティヴな絵画世界は、幻想や超現実といった言葉で捉えられてきた近現代美術の系譜を連想させることが多いかもしれません。しかし影山の制作の発端にあるのは多くの場合、自らが実際に接した身近な事物です。 たとえば彼女が抱く重要なテーマの1つには、現代の都市開発とそれによって掘り返され急造されていく街や建物の歪さが挙げられます。彼女はそのテーマを、設置された場所に馴染んでいない奇妙なモニュメントや、謎の生命体のようなモティーフに仮託して描いてきました。近作ではそれらの存在感を保ちつつ、空間や状況の設定を操作することで、一見歪な主題たちにポジティヴな意味を与えていくといった試みも行っています。彼女の実感によって結ばれてきた現代社会の暗喩としての風変わりな像たちは、絵画世界の中で自律性を強め、より複層的な文脈を持ち始めているようです。

渡辺佑基が制作において常に意識しているのは、物質の表面が持つ質感です。彼の作品の多くは、日用品や玩具、人体の一部などのさまざまな物質の質感を丹念に描写するとともに、時にはその物質の形状に切り抜いたシェイプド・キャンバスを用いるといったフォーマリズム的構成を施すことによ って成立しています。そこには単なる写実性のみならず、何らかの質感を構成し絵画化することによって発生する新しい視覚への挑戦があります。渡辺は「物質の表面を構成していくことによって生まれる、平面でも空間でもない空白地点のようなところに新しい何かが広がっている気がする」とも語りますが、計画的な制作と工芸的ともいえる精緻で滑らかな仕上がりの裏で誘起される、異空間に接続されるようなパースペクティヴは彼の作品の大きな魅力といえるでしょう。

全く毛色の異なる三者ですが、一見ポップで親しみやすい表層の背後に形容し難い批評性や形而上的な気配を漂わせている点では共通しているか もしれません。本展が3人の清新なポテンシャルとモチヴェーションに触れていただける機会となれば幸いです。

幸田千依
より道の灯

2018年6月22日(金)‒ 7月28日(土)

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月・祝] 休廊

 

[オープニングレセプション]
6月22日(金)18:00 ‒
*19:00頃より 53235 氏による弾き語りライブを開催いたします。

一人歩く道すがら ふと 景色に見つめられていることに気がつき 立ち止まってしまう時がある
自分のこれまでと 今 目のまえが邂逅し 景色と目が合う瞬間だ
その時私は 景色 と呼ぶものの中にある全てが そこに「すでにあった」こと と
それを知覚する「自分がいたこと」の両方を強烈に意識する
景色と見つめ合いながら 視点は大きく伸び縮み 境目にある皮膚に鳥肌が立つ
ふつふつ力が湧くような 目が離せなくなるような 大いなる肯定の感覚に打たれる
高揚した意識は目を輝かせて 広がる景色をさらにはっきりくっきり確かめる

起こるまでは予測不能なようでいて 後々振り返ると いちいちピタリと合致 もする
自分と アラウンド ザ 自分以外のものの作用
すべてが絶えず動いて明滅する星のようで それぞれの軌道 その無数の交差の中 意識と景色は引き合っているように思う
それが どうも二つの目のあたりで不意に 出会うように思う
全てひっくるめた感覚を 状態を 目に焼き付け 覚えていたい そこに否定は有り得ない
そのシーンはいつまでも消えず 周囲も自分も見えない暗闇の途中にも 確かな灯りになるはずだから 星を動かすものだから

それを絵にする遅さは現実だが それでも出来うる限り描き
毎度毎度の事ながら 泣いたり笑ったりの中で 誰かの肩をつついて横に並び ほら、など言って束の間 その灯りを共にみたい
それぞれの道の途中 無数のより道でまた出会いたい

 

*

 

画家・幸田千依による個展「より道の灯」を開催いたします。国内外各地のレジデンスプログラムへの参加を軸にした活動や、2017年のVOCA賞受賞などでも注目を集めてきた幸田は、近年その制作のモードにさまざまな変化を見せています。

彼女の作品の特徴の1つに、多数の視点が1枚の絵画上で統合される点が挙げられます。幸田が描く景色や人物の多くは実際に彼女がその目に映してきたものですが、1つの画面上に1つの瞬間だけが描かれる、ということはあまりありません。たとえばかつてプール監視員のアルバイトを務めていた頃、長いあいだ彼女の網膜に焼き付いていたのは、水中を移動する群衆とそれに伴って発生する渦巻きの様子でした。彼女はそのモティーフをたびたび画中で取り上げてきましたが、それらの作品のいくつかにはその時々で記憶に残った山や森などの別の光景、あるいは政治デモやインターネットといった社会的要素が加えられています。異なる時空間に紐付いた複数の視点たちは、幸田の確かな実感のもとに合成されることで新しい美しさや奇妙さを湛え、絵画上にしか存在しえない “プール” の光景を私たちに提示してきました。

近年の幸田は、視点の複数性という特性を保ちながら、より広範な視野を絵画上で展開する傾向にあるといえます。太陽や空が支配する遠景、小さな家や道の密集=街並みからなる中景、そして自らの視座の存在を示すかのように草木が繁茂する近景。これらが1つの画面上で統合された作品群は、一見すると平穏な風景画のように見えるかもしれません。しかしこれらの作画過程で幸田は、単に印象深かった風景を組み合わせるのではなく、自らの視線、さらに言えば眼が動いていく際の個人の “癖” のようなものを自覚することを常に強く意識してきました。そしてそれは絵の描き方への自覚、加えて自らの人間性や思考、社会的な立ち位置の自覚へと敷衍されていきます。その上で幸田は、今見ることのできる景色のあらゆる要素に—良きものにも、好ましくないものにも—“なんらかの視線” を注ぐような制作を目指してきました。彼女の絵画の中では、遠景でも近景でも、全てのものに均質的な色と形のバランスが与えられています。ここで端的に示されているのは、自らの移ろう視点や自分を取り巻くあらゆる要素を画面上で調和させ、1つの光のもとで肯定する、という意志です。いわば画中の主役を明示しないその筆触の均質性は、鑑賞者に自分自身の視点で絵の中を歩き回ることを促し、絵画と対峙する自らの視座を自覚させる機能をも有しているでしょう。こうしたさまざまなインタラクティブな作用を経て、幸田の絵画はさらなる複層的な視点を獲得していきます。

本展では、これまで地方でのレジデンスを中心に活動してきた幸田にとっては珍しい「渋谷でのレジデンス」という経験と、そこで遭遇した “小さな夕方の冒険” をもとに生み出された1枚を含む最新作品群、そして現在に至る視野の変化が読み取れる過去作品群を同時に展覧いたします。印象派やキュビズム、あるいはシュルレアリスムといった近現代絵画の血脈を感じさせつつ、自らの現代的 / 現在的な “生” そのものを着実に絵画化していくかのような幸田千依のダイナミックな作品群をお楽しみください。

松原健
Spring Steps

2018年5月18日(金)‒ 6月13日(水)

[オープニングレセプション]
5月18日(金)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月] 休廊

松原健による個展「Spring Steps」を開催いたします。映像や写真を主たるメディアとして扱い1980年代から精力的に活動を展開。さまざまなオブジェクトやインスタレーションを伴って多角的に展開する作品群により国内外で注目を集めてきた松原ですが、LOKO GALLERYでの個展は今回が初となります。

彼が近年の制作において一貫して抱き続けているテーマの1つが “記憶” です。たとえば松原の作品に用いられる古いファウンド・フォト / オブジェクトは、それ固有の重厚な歴史的背景やノスタルジアの気配を感じさせる一方で、シンプルかつ清新な作品構造の中で匿名性を付与されることにより、鑑賞者の記憶と共鳴し全く新しい像をも結んでいきます。そこにはストレートな問題意識や郷愁のみならず、視覚芸術にのみ宿りうる、ある種のポジティヴな躍動が共存しているといえるでしょう。記憶の反復や循環、共鳴といった諸作用から生じるそのような力学について、松原はセーレン・キェルケゴールの「反復と追憶は同一の運動である」「追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向って反復されるのに対し、ほんとうの反復は前方に向って追憶される」という言葉を引きながら語っています。

今回の個展では、松原のキャリアにおいて初となる「ダンス」をモティーフにした作品群が、映像とインスタレ ーションを軸に展開されます。戦後日本の復興期における文化的シンボルの1つともいえるダンスホールや 社交ダンスは、当時の若者の憧れであった欧米的な洒脱さの象徴であると同時に、アジアの近代化や植民地支配といった問題と背中合わせになった存在であるともいえます。そのような複雑な背景を顧みつつ、松原はかつてこの国で「ダンス」という文化が持っていたダイナミックな熱量を自らの作品の中に召喚し “追憶” することで、未来へ向かう新しい磁場の生成を目指します。

平松麻
waft / vacant

2018年4月18日(水)‒ 5月12日(土)

[オープニングレセプション]
4月18日(水)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月] 休廊

(*5月3日・4日・5日は開廊いたします。)

目に見える存在と目に見えない存在のあいだにある揺らぎが、景色を広げる。
そこでは雲が境を溶かし、境だと思い込んでいたところにこそ雲が浮かぶ。
気配に価値をおくことのできる日々が絵画の中にある。
そう思い、描いている。

*

画家・平松麻による個展「waft / vacant」を開催いたします。

絵画制作を中心に活動しながら、近年ではさまざまな書籍などへの挿画でも注目を集めている彼女の作品は、静謐な異界の息吹を感じさせるモティーフと、油絵具の積層・掘削・研磨の繰り返しが生み出す重厚なマティエールで、鑑賞者をその絵画世界へ誘います。

平松は一貫して、自らの体内にある広大で荒涼とした土地の姿を絵画に落とし込んできました。現実の世界を凝視して いると、その世界の存在が揺らぎ、別の土地の姿が立ち現れる瞬間が訪れる。その重要な瞬間に現れるもののことを彼 女は「気配」と呼びます。彼女がたびたび画中で取り上げてきた「雲」という非固形の存在などは、その揺らぎの気配を象徴するものだといえるでしょう。

これまでの平松は現実世界と自らの内側に広がる世界とを別の領域として捉えてきましたが、近年ではその2つの境目が溶け合うようになってきたとも語っています。そしてそういった相反するさまざまな要素を制作の中で等しく扱うことは、 彼女が抱く大きなテーマの1つでもあります。平松にとって絵具を塗り重ねていくという行為は、異なる世界の間隙に点 在する「気配」を結わき、画面上に定着させるためのものなのかもしれません。

心象風景への沈潜、そして絵具との格闘によって自己の絵画を探求する平松麻の、最新の作品群をお楽しみください。

和田昌宏
MASAHIRO WADA FILM WORKS

2018年3月23日(金)‒ 4月14日(土)

[オープニングレセプション]
3月23日(金)18:00 ‒

[火 ‒ 土] 11:00 ‒ 19:00
[日・月] 休廊

 

協力:青梅ビデオクラブ

和田昌宏による個展「MASAHIRO WADA FILM WORKS」を開催いたします。本展は“昔話”を題材に彼が制作してきた近年の映像作品群を軸に構成される展覧会です。

和田はこれまでに「さるかに合戦」「こぶとりじいさん」「山姥」などの昔話を作品化してきました。多くの日本人が知る童話性の高いエピソードを着想源としながらも、原作のイメージとはかけ離れたシリアスな映像と重層的な構造で展開していくこれらの作品は、私たちが生きる現代社会の様相や、人間の精神の深淵を炙り出すかのように鑑賞者に迫ります。

またこれらの作品でたびたび用いられている、建築物のような可動式インスタレーションを映像の中に敷衍するとい う手法や、炎・肉・闇・煙といったプリミティヴかつ魔術的なモティーフの数々などは、近年の和田作品に通底するものです。これらの象徴的な要素からは、映像やインスタレーション、パフォーマンスといった多岐にわたる美術表現への、和田によるダイナミックな実験と挑戦を観取できるでしょう。

本展では前述の昔話を扱った3作品を中心に、神話や民間伝承にまつわる他作品・スケッチ的な素材なども織り交ぜながら、近年の和田の一側面をクローズアップすることを目指します。